佐野や sa-no-ya モノ・ツチ・ヒトそしてデザイン

つながり

佐野や小林が共感し影響を受けた素敵な人たちがいます。このホームページでぜひ紹介したいという想いからうまれたこのインタビュー企画。あなたの日々の小さな気づきにつながればうれしく思います。ほんの少しの時間、どうぞお付き合い下さい。

満開の桜の木の下で。

麺酒家 まんかい / 店主 奥長義啓
佐野や「大阪/店舗」

博多一風堂という大舞台で、現場からさらに取締役までの19年間に携わった奥長さん。時には新幹線で通勤し、ジェット機で海外へ。そんな毎日に終わりを告げ原点に返り、まさにいまラーメン屋のおやじに。なぜ45歳で独立する決断ができたのか?満開の桜を眺めながら振り返って頂きました。今回は特別ロングインタビューです。

取材・文 / 所澤陽子

撮影 / 石橋マサヒロ

全国のラーメン店を食べ歩いて、美味しかったのが一風堂だったんですよ。

──奥長さんを知るための大事な事として、長く勤めていらした一風堂のお話からお聞かせ頂きたいのですが、まずは一風堂に入られたきっかけは?

奥長 そもそも僕は2歳の頃からラーメン屋のせがれで育ちまして、気がついたら両親が岐阜の大垣でラーメン屋をやっていました。当たり前にラーメンが生活の一部にずっとありましたね。小学校高学年ぐらいになると、お店を手伝ったりしていました。いつの日か僕の中で「親父かお袋のどちらかが倒れたら、俺が手伝う」みたいな考えはずっとあったんですよ。

──その考えというのは使命感みたいなものですか?

奥長 そうですね。それで、26歳の4月に、それまで元気だった親父がクモ膜下出血で突然倒れて、2、3日後に残念ながら亡くなってしまったんです。人間って、あんなに強かった人がすぐに「死」というところに行っちゃうんだと思いましたね。

その時、僕は大学を出てアパレルの営業マンをしていたのですが、親父の死を目の前に「これはやりたいことをやらなければダメだ」と思って、色々と考えてラーメンをやろうと思いました。

それで、全国のラーメン店を食べ歩いて、美味しかったのが一風堂だったんですよ。『5年間の修行』ということで入って行きました。目標は岐阜の大垣に、ご当地の本物の美味しいラーメンを持って帰るということでした。それが一風堂に入ったきっかけです。

──そこで5年間修行をされて、もっと長くなっていくんですよね?

奥長 長くなっていくんですよね、これがまた。

──ではあえて地元に帰る事はせず、更に一風堂のスタッフとして現場から離れてどんなポジションにいたのですか?

奥長 人事、営業的なマネジメントを行なっていましたね。数字管理、商品管理やオペレーションの管理など、総合的に複数店舗を管理する店長のような感じに徐々になっていきました。

──どうしてそのような立場になっていったのだと思いますか?

奥長 あまり考えたことなはいですね。ただ、自分自身でも1店舗をしっかりとやっていきたかったということと、当然独立するために修行に入ったので、“一風堂だから”“組織だから”とかという考えではなく、これがもし俺の店だったらこんなことはできないとか、もっとちゃんとしなきゃダメだとかということは常に思っていましたね。

売り上げが少ない時も、一風堂の看板を表に出しているのにもかかわらずこんな状態では、自分でやったらもっとひどい事になるぞ、河原社長からの教えを基本的には徹底して行動しようと思っていましたし、共感もしていました。それをやっていったひとつの結果だったのかもしれません。

──独立することが前提の積み重ねだったのですね。

奥長 そうですね。最後の最後まで会社組織の上役を目指す事が目的だという意識で居たわけではなかったですね。経営はよくわからなかったです、はっきり言ってね。特に勉強してそのセオリーに当てはめてやっていたわけでもないし。経営の立場に6年ほどいましたけど。

──ご自分が計算せずいれたのはなぜでしょうか?

奥長 河原社長のおかげでしょうね。

──では河原社長の魅力はどういうところにあるのでしょうか?

奥長 まずは純粋なところですね。当然いまのお立場だから、本当は色々な思いの中で動いていらっしゃるところもあるでしょうけれど、基本的には正直で純粋なところがあって、(人間くさくて)人間味のあるところもありますね。 講演会になれば300人や500人、多い時には1000人ぐらいのお客さんの前で話す社長でも、例えば2人になって酒を飲み交わす時や、普通に喫茶店に行く時なんかの河原社長は全然違って。そのへんのギャップと経営者としての悩みもあって。だけどやっぱり力強いリーダー。だから、すごい深みがあるところに信頼を置いていました。そして信用もしてもらえていたのではと思います。

ある時、俺の“親父”にしようという風に決めたことがあったんです。俺の“親分”とか“社長”とかじゃなくて。一回だけ社長にその話をしたことがあるんですけどね。

──信頼関係があったからこそ、すごく純粋に他のスタッフにも伝えていけたというところもありますよね。

45歳になると同時に、親父の人生に置き換えてみた。

──ちなみに今おいくつになられましたか?

奥長 今年の暮れで46歳になります。

小林 今回のインタビューは、奥長さんと同世代で、会社に長いこと属しながら頑張ってはいるんだけど、でもやっぱり夢を忘れられない…。という方達へエールのような形を僕のホームページで上げたいなと思っていて。なので奥長さんのリアルな声をお聞きいしたいですね。

──そうですね。聞きたい人はいるはずです。なぜこのタイミングで独立だったのでしょうか?

奥長 全てが通ずる話なんですけど、僕が最愛の親父を亡くした歳は26歳だったけど、彼(父親)は数えで55歳だったんですよ。だから、僕の中で45歳になると同時に、親父の人生に置き換えてみたら、親父が死ぬ10年前に親父自身が、「俺の人生あと10年だから、あれとこれとそれをやらなきゃ」って言って、残りの10年を、55歳を迎えるまでの日々を送ったかというと、当たり前だけどそうじゃなかった。

自分にとっての残りの10年というタイミングと、会社が2015年で30周年を迎えると。30周年を社内にいながらして見たいという希望もあったのですが、そうすると10年ないわけじゃないですか。親父の人生に置き換えた時に。だからケツを55歳という風に定めたら「今いかなきゃ」みたいに思ったことがまず大きな柱ですね。

今辞めたらもったいないとか、そういう考えではなくて、55歳までと考えたらやるなら今スタートを切らないと、45歳に入っちゃうと。だから45歳前に店がオープンできたことは、タイミング的にすごくよかったんです。色々な人に協力してもらいました。だからそこが一番大きいです。

──お父様の人生を振り返ったとき、自然と決断できたんですね。

奥長 そうですね。だからと言って、45歳になる前の43歳ぐらいから、45歳をめがけて計画を立てたとかそういうのではないんですよ。

原点の日

──原点の日にある出来事があったとお聞きしましたが。

奥長 河原社長と「原点の日」っていって、現場に朝から晩まで河原社長が入って、ラーメン屋の親父に徹するんですけど、その横にずっとついて、7店舗8店舗ぐらいの店舗を一緒にまわっていって。親父が一番かっこいいシーンを2月後半ぐらいからずっと見れたんですよ。それで、「親父かっこいいな」って思ったこともきっかけだったし、辞めると言った日はすごく重なった日で。

僕は1999年の1月に大阪の一号店の長堀店で店長をやったんですけど何かと商売上勉強になったんですね。その河原社長と一緒に働ける「原点の日」が長堀店で行なわれるというのと、行なわれる日が4月6日だったんですけど、その日が親父の命日に重なったんです。

そうなったらもう取り憑かれたように「社長ちょっと話いいですか」と言ったら「おー、じゃああそこのドトールでも行こうや」となって。もう今日は何も怖くねぇ、何かを言われてしかめっ面されても「ちょっと待った」って言えるなって。

逆に今日を逃したらたぶん言えないかもしれないなって。で、4月6日の朝10時10分ぐらいに「社長実は...」と言ったら「は?お前この大事な時期に何言ってるんだ!30周年があるっていう時に!」と言われましたけど、「いや社長、社長に人生があるように僕にも人生があるんです」と言って。すぐに社長は冷静になられて、「そうか。まあ30周年は俺の人生であってお前の人生じゃないな…」とすぐに頭を切り替えられて。

要するに僕がそれを責められたところで「すみません、ちょっと言ってみただけで。残りますよもちろん、頑張りますから」って話にならないことは河原社長が一番良く知っているんで、「もうわかった」と言ってもらいました。

──河原社長もすぐに切り替えられて、その懐の深さはすごいですよね

奥長 そうですね、僕も19年勤めた会社でしたから、ありがたかったですね。

全然ラーメン屋の『体』になってない

──辞めると決められてからは大変だったのではないですか?

奥長 そこからはもうドタバタでしたね。全然ラーメン屋の体になってないなというところから、現場に入り直して。スープの試作とかも河原社長に言って場所も借りて。

──現場を離れて何年だったんですか?

奥長 最後の店舗から数えると今から8年前。だから37歳ぐらいまでは現場にいました。

──正直、少し怖くなかったですか?

奥長 ありましたね、そういうのは。プレッシャーとね。取締役ぐらいまでいって、しかも「あいつは現場からいったやつなんだ」っていうことは他の皆さんもよく知っていらっしゃいますし、その俺がラーメン屋やるっていうことになれば、面倒くさいことはいっぱいあるだろうなと思いながら(笑)。

格好つけずに言えば、ラーメン好きなやつがきて、なんだたいしたことねーなとか色々言われるだろうなとか。でも頑張らなきゃ格好悪いなとか。当然それは社外の人間もあるんですけど、もっと言えば社内の連中たちに対して格好付けなければいかんしなとか、最初はそういうことを思ったんですよ。でもそのうち、そんなところを見ながらやる必要もないなと思って。

その時分から周りに協力者が徐々に増えてきて。当然その協力者のうちの1人は小林さんで。絶対にこの周りに負けない、奥長さんらしいお店を作るからと言ってくれたことは嬉しかったですし、僕が細かいことをいちいち考えなくても、小林さんが色々なアイデアを出してくれるというのもあれば、励みになる存在が多くなってきたことで、「変に気負わなくていいんだ」と。「やれることしかやれないんだから、やれることだけやろう」と思うようになりました。

結局百数十名から二百名近い人からもらえて。

──お店を作っていく上での思い出をお聞かせ下さい。

奥長 お店のデザインは僕は素人なので、どちらかというとオペレーション上ここに導線が欲しいとか、というようなことは要望としては話すんですけど、デザインは小林さんに全てお任せで。

──完全に信頼を置いてお任せしたんですね。

奥長 この手形のデザインのアイデアも小林さんの方からもらって。「そんな手形なんて何人ももらえないよ」って言ったら、結局百数十名から二百名近い人からもらえて。

全然そんな風には思ってなかったんですよ。何人かに「ちょっと悪いんだけど」といって頼んだら「わかったわかった、誰々にも伝えておくから」と言ってくれて、わーっと広がって、海外からも本当の墨で押してたくさん送ってきてくれて。 手形を押すには墨なり絵の具なりを溶かしてべちゃっと付けて、この行為って瞬間だけど、結構不快なことじゃないですか。二百名近くの皆さんの手が汚れたんですよ。それをもっと感じたい、感じないと申し訳ないと思ったんですよ。

工事もだいぶ進んできて、今更言ってもと思いつつ(笑)。「小林さん、トイレだけじゃなくてここにもうちょっと手形の桜を咲かせたい」って言って。でもね、小林さんと、津田さんが「それはこういう問題がありますから、今からだと...」とか一言もなく、僕は感動したんです。今初めて言うんですが、あの時の2人はすごく格好よかった。すぐに小林さんは「よし!じゃあやりましょ!!ここはどうします?」「あそこはどうしましょうか」っていう打ち合わせにすっと入ってくれて。こうして表現してくれました。

──厨房から一番見える場所ですね。

小林 奥長さんが積み重ねてきた歴史が手形になって思い出されていく。そうすれば、ぶれずに進むきっかけになるんじゃないかなと思って。何よりもこれだけの人数の手形が集まったのはすごいと思いますね。やっぱり思った通りの人徳がある方だなと。 そして桜のアイデアは、お父さんのお話を聞いたのもあったんですよ。病室から(桜を)見られたっていうね。

奥長 そうですね、4月6日、親父がいよいよ逝くぞっていう時には病室が3階で、窓が南側でね。そこに見える大きな桜の木が、風が吹けばわーっと散っていく。拍手喝采なのか、よく頑張ったっていうエールなのか、あるいは涙なのか...。最期は咲かせて散っていくぞ、みたいな。いよいよくたばっていくというのとは裏腹に。

そこからですね、毎年桜が咲き始める頃に「そろそろ親父が倒れる頃かな」とか、満開を迎えて散っていく頃には「こんな頃に亡くしたな」っていうのが2年、5年、10年経った、いよいよ今年で20回目になるのでね。花見にも行ったりするようになったんですよ、家族ができてなお。その時にいつも思い出しながらその情景を見ると、恋人が語らい。家族が楽しそうに、あるいは職場の仲間で。皆楽しそうにしていて… 

そこに争い事とか災いとかのようなものは基本的にはあまりなくて。長い冬がやっと終わってポカポカ陽気という情景があったので、尚の事うちの店に来てくれるお客さんには、ああいう何のわだかまりもなく楽しいひと時を過ごしてもらえたらいいな…。ていうのが「まんかい」という屋号に結びついていきました。

小林 僕もその話を聞いて病室の情景を勝手にイメージして、そこが発想のスタートだったんですよ。絶対に桜。奥長さんにしかわからないものでもいいから、奥長さんらしい『何か』を落とし込みたいと思ったんですよ。「奥長さんという人は人の繋がりを絶対に大事にしている人だからな…」と。それで、桜と何かを繋げられないかなと思ったのが“手形”でした。

そして実は奥長さんがここで男泣きをしたんですよね。お店の木板看板を内緒で一風堂のスタッフさんがプレゼントしてくれたんですよ。発注する時に「内緒にしておいて」と言われて、このテーブルと一緒に届いて、どのタイミングで言おうか迷っていたんですけど、このカウンターのところに置いておいて…。

奥長 不自然にね、一枚だけええ板が置いてあるんですよ(笑)。

小林 奥長さんが「これ何ですか?こんなの発注しましたっけ?」となって。「いつのタイミングで言おうか迷ったんですけど、実はこれは皆さんがって聞いていたので」って言ったらもうそこで肩が(震えて)。僕ももらい泣きをちょっとしてしまいましたね。

奥長 いや、あれも本当に嬉しかったですし、今でも涙が出てしまいそうですね。 ちゃんとやらなきゃいけないなと思いましたもん。ちゃんと生きなきゃって本当に思いました。

「間に合ってよかったな」と思います。

──一風堂を辞められて、ご家族との関係も変わられたんじゃないですか?

奥長 そうですね、ほとんど家にいなかったですね。一番短い時では家に88日しかいなかった年もあってね。たまに帰って来た時には息子が大きくなっているっていう。ベッドの大きさは変わらないから、特に夫婦喧嘩をすることもなかったのですが、最近はずっと一緒にいるんで、たまにあるんですけど。でも、前は夫婦喧嘩すらできなかったんですよね。コミュニケーションのひとつじゃないですか。

今は息子や娘も、僕が寝ている時に出て行くし、(僕が)帰ったら寝ているから、彼らにとっては会っていないに等しいかもしれないですけれど、でも会っているんですよね。そばにいるから。もう一つだけ言えば、「間に合ってよかったな」と思います。これが随分遅い時間よりも、今の息子や娘たちといる時間といい、僕と嫁さん、間に合ってよかったなと。

──決断された時、奥様は何と仰ったですか?

奥長 特に相談して「いいか?」ということもなく、やるって言ったら間違いなくそっちについてきてくれるっていうのがありましたので、「今日言ってくるわ」みたいな。それで「え!?」みたいな(笑)。「4月6日、今日しかなかろう!」みたいな。それで帰って来て「言ったもんね」と。

もう後には戻れないというか、もう後は進むしかないと。それからですよ、物件探しに入ったのも。いつも自転車に乗って「じゃあ見に行こうか」と一緒に来てくれたので。

嫁さんが「ここテナント募集って書いてあるやん」って言って見つけたんですよ。不動産屋の情報サイトにはまだ載っていなくて、試しに電話をしたら「じゃあ一回お会いしましょうか」となって。嫁さんも僕と同じように人生が一転したけど、よかったなと思いますよ。

感覚的にはもう一回人生を手に入れたみたいな。

小林 奥長さんのような世代の人たちで、少なからずいると思うんですよ。長く勤めていて、でも夢を忘れたくないみたいな人たちが。その人たちへのメッセージっていうのも変だけど、何かありますか?

奥長 僕もえらそうなことを言えるわけではないけれど、一回しかないからですね、人生は。生活パターンは180度どころか、360度の先の180度ぐらい変わりましたからね。でも、感覚的にはもう一回人生を手に入れたみたいな。踏み出したことによってね。

過去にあれだけジェット機に乗って、海外含めて色々な所に行って、対外的な人たちともたくさんコミュニケーションを取りながらやってきて、時にはVIP扱いをされる時もあれば、という人生があって、一転してラーメン屋のおやじにね。

ゼロからなんで、「とにかく来ていただいてありがとうございます」というところから始まって。生き返れたというのがものすごく大きい。人生をもう一回再スタートを切れたというか、生きているうちに生まれ変われたというか。

──その変化を楽しんでいるように見えますね。

奥長 今までは新幹線に乗って2時間半かけて通勤していた福岡がありながら、今や自転車で3分、ダッシュすれば2分ちょっとで職場に着くという。そして行く場所もここしかない。

小林 もうひとつまた新しい人生、それはいいですね。そういう発想であれば40歳であろうが45歳であろうが50歳であろうが、改めて自分の人生をもう一度見つめ直せますね。

◎店舗/まんかい写真

まんかい 住所:大阪府大阪市福島区福島7-13-11 1F TEL:06-6346-3901

取材を終えて

今回は名古屋を飛び出して大阪でのインタビュー!着いてさっそくまんかいさんで美味しいラーメンを頂いて、その後にインタビューが始まりました。

40歳を半ばにして大きな決断をした奧長さん。その決断した後には、色々な想いも出来事もあった。改めて積み上げてきたものを、さら地にする覚悟は並大抵の事ではなかったと思うのです。

だからこそ必要だった奧長さんのゆるぎない覚悟、関わってきた周りの方々の気持ちも一緒に、織り交ぜてカタチにできたあの満開の桜の手形。小林さんのコンセプトでもある「伴走者という役割」ができる想いやりのカタチだったのではと思うのです。

あぁ〜、奧長さんの笑顔を思い出したらまんかいさんのラーメンが食べたくなりました。

bishop 所澤陽子